希望、としての写真
不思議な写真である。見るたびに印象が変わってしまう。
日本画のように見えたり(浴槽という舞台装置のお蔭ばかりではない)、大理石像の写真のように見えたり(婦人の背に当たる明るい陽射しのためばかりではない)、ルノワールの描いた二個の裸体のように見えたりする。
言い換えてみよう。
あるときは、一枚の平面にすべてが貼り付けられているように見えて、二人の人物が、浴槽全体を満たす空気に包まれ、溶け込んでいるようだ。このとき、画面のいわばヘソをなしているのは婦人の漆黒の髪である。日本画モードと呼ぼう。
あるときは、人物を浸す湯の透明感が、知らぬまに、陽射しを浴びる空間を通って、浴室全体に回り込み、画面のおよそ半分を占める婦人を立体化する、まるで彫像のようにする。彫像モードといっておく。
あるときは、幼児の体のほんのりした赤みが、婦人の背の白さに柔らか味を与えて、肉感的な絵画を出現させる。カエルのごとき濡れた小動物を連想させる幼児が、がっしりした母の体を、これも傷つきやすい命なのだと思わせる。
これらの印象はいつのまにか入れ替わる。衝突することも、混濁することもなく、一瞬交錯する。ある印象が支配し始めると、別の印象が後ずさりする。まるで反転図形のように交替するのだ。にもかかわらず、図形が反転するときの唐突さや、生真面目すぎる「あれか、これか」は皆無である。これは豊かさの徴だと思う。
この作家の作品を長年見てきた。こんな豊穣さが花開くとは思ってもみなかった。デビュー作にすべてが現れているというのは、一般論にすぎない。しかも、後から見ての話である。これも後から見ての話だが、この作家が秘めている多様な世界は、これまでは、互いに足を引っ張り合って、どの世界も頭を出せずにいたようだ。デビュー作においては、すべてが隠れていたらしい。それがこの作家の弱みだったともいえるが、その弱点が本物の強さに生育したかのようである。
私の専門は哲学である。哲学は世界をとらえようとする。哲学の武器は論理である。論理はシンプルなものほど切れ味がよい。単純なものほど深く切り込める。哲学者というのは、何よりもまず、深さを追求する種族であるらしい。そのせいなのだろうか、深さと豊かさが両立しないことが多い。深遠さが無一文すれすれに見えることが結構ある。強みが弱みに見えることが少なくないのだ。弱み(切れ味のよすぎる論理の放棄)がそのまま強みになるような哲学を(いや、人生を、かもしれない)夢見ている私には、この写真は、一つの希望に見える。
いまや「希望」というコトバが死後になってしまったかに思える日本で、この作家の近年の作品が広く一般に公開されることを、強く願っている。
慶応大学文学部助教授 石井敏夫
2005.11.5
義兄、石井敏夫はこの短いエッセイを書いて間もない11月23日に急逝しました。