Appearance – Statement
この空間は、最も広い意味の出現(アピアランス)の空間である。それは、私が他人の眼に現れる(アピアー)、他人が私の眼に現れる空間であり、人々が単に他の生物や無生物のように存在するのではなく、その外形(アピアランス)をはっきりと示す空間である。 – ハンナ・アーレント「人間の条件」*
アピアランスは、歌う人のポートレート・シリーズである。
撮影を始める前の2009年夏から秋にかけて、私は原因不明の脳症で体調が不安定だったせいか、たびたび子どもの姿に目を奪われていた。子どものエネルギーに憧れを抱いたのと同時に、その危なっかしさや脆弱さに共感を覚えたのだと思う。そんな時、友人の音楽家が子どもに歌を教えていると聞き、「歌う子ども」を撮影したいと思ったのがきっかけだ。
数年後、あるギャラリーで、歌を歌っている青年を見かけた。伴奏もなく、ただベンチに座って歌うその姿は、無防備でありながら、なんとも厳かな雰囲気をまとって周りの人々を魅了していた。その時、大人も子どもも関係なく歌う人には共通する何かがあると感じ、「歌う大人」を撮るようになった。
歌いながら人は感情を表現する。メロディは「過去」や「未来」への想いを喚起し、リズムは身体を刺激し、様々な表情と身振りが被写体の上に現れ消えていく。写真は感情という目に見えないものを写すことはできないが、常に変化する表情の一瞬を捉える。その特質を利用して、被写体の顔に不意に現れる、感情の発露の瞬間を捉えたいと思った。
矛盾するようだが、制作過程で、フィルム・フォーマットを正方形から長方形へと変更し、被写体の周辺をより取り入れるようになった。顔だけを切り取りたいなら背景は邪魔なはずなのに、それを排除する方向に向かわなかったのは、この撮影において被写体が現れる空間に何かしらの意味を感じていたからだ。
2002年にアメリカに移住してから、アピアランスがはじまる2010年までの間、私はこの地でなかなか写真が撮れなかった。それは、カメラを被写体に向ける時に生じる、「なぜ私はここでこれ(この人)を撮るのか」という問いにうまく答えられなかったからである。外国人の私が異国で写真を撮るには、超えなければいけないハードルがあるように感じていた。しかし、「歌う子ども」を撮りたいと思ったとき、私の中で、ここが外国とか私が外国人とかいうことはどうでもいいことになった。子どもという存在も歌うという行為も普遍的なものだと思った。そして子どもの延長にある大人も人間として普遍ではないかと。すると、そこがどこであろうとも、私がだれかに出会い、話し、撮影するということが可能になった。
被写体のほとんどは、私が暮らすサンフランシスコやオークランド周辺で出会った人々である。友人の紹介、アパートの隣人、職場やボランティア先、展覧会や友人宅の集まりなど、日常生活の中で知り合い、撮影をお願いし、彼らの自宅や指定場所に出向く。歌の選択は本人に任せ、私は、彼らがそこに存在し、歌を歌い、世界と共鳴する瞬間を写真に留めたい一心でシャッターを押す。こうしてできた写真を一枚一枚紡いで、いつか写真集を作りたいと願った。一人一人独特な形で私の眼に現れた被写体たちが、また違う誰かの眼に現れ、その姿をはっきりと示す「出現の空間」を創り出すために。
* ハンナ・アーレント『人間の条件』志水速雄訳、筑摩書房、1994年、320頁